ここ数日いろいろありましてなかなかブログを書けませんでした。
そんな中、昨日息子が初寝返りをした瞬間に妻と立ち会うことができました!
ボクは嬉しくて目に涙を浮かべて、妻は涙を流して共に喜んでおりました。
子供は親を幸せにするとか、幸せや喜びを与えてくれるという言葉もありますが、子供の成長で喜びや幸せを感じられる自分達の心の状態が大切なのだなとも思いました。
ボクのブログには、心の自立の大切さをお伝えしていることが多いのですが、あまり良く思われない方もいるかと思います。
他人の影響を受けないようにする、人との境界線をしっかりとする、他人の影響が強い場合は環境を変える、自己中心的思考を持ち自分の心を大切にする、必要以上に人に興味を持たない・干渉介入しない、無理して人と繋がろうとしないなどなど。
こんなことを書いているので、ボクをドライな人間と思っている方がいるかもしれません。
上記に書いていることは、自分の軸や土台をしっかりさせる為に大切なことでして、実は心や悟りを開いたりする為に必要な条件が揃っています。
ドライと思われてもいろいろブログに書いているは、自分の本当の心・思考・意識といったものに繋がる為に必要なことなどを、ボクが試して実感して効果があったことをお伝えしているつもりです。
ボクが知っている限りでは、お釈迦様は最終的に一人で修行されたと聞いています。
数人の師の元で修業したものの何か違うと感じ、独自に苦行をしたものの力尽き、苦行の末に何も得られないことを知った。
そして女性に食事をもらい助けられ、命の大切さを知った。
苦行を共にしていた仲間達は、その行為を許さず去っていった。
改めて一人静かに瞑想などをして、悪魔と戦い勝利し、その後悟りを開いたと聞いています。
ボクは、お釈迦様が戦った悪魔とは「慾というエゴ」といったものであり、一人静かに自分の心と向き合い続けて慾の原因を知り、悟りを開いたと思っています。
この過程は、一人静かに自分と向き合う時間と場所を持たないと、「慾というエゴ」を認識して解放することができないことを意味していると思っています。
葛藤や煩悩を生む慾というエゴを持っているのは自分で、自分と向き合えるのは自分だけで、自分を変えることができるのは自分だけだからです。
ボクが思うに、お釈迦様は自分の慾や煩悩などが、自分の心から出ていることを自分で知っただけのことで、それにより自分の本当の心・意識などに繋がったのだと思っています。
結果として悟りを開き様々な気づきを得る中、宇宙などの叡智に繋がっている本当の心・意識といったものが顕在意識ときれいに繋がり、様々な感覚を拡大させて凄い人になったと思っています。
また、人にいろんなことを説けるほどいろんな気づきがあったのは、悟りを開く前はかなり煩悩多く欲深かったり、そういった自分に多くの葛藤があったのでは? と邪推したりしてます。
スケールの違いはありますが、似たような体験をしたことと照らし合わせていくと、ボクがブログで書いたりセッションでお話している内容、自分の心と繋がれば様々な気づきが入ってきて、意識が拡大して知覚能力も拡大するという内容もかなり良い所にせまっているなと思えてきてます。
そして、ボクが最近目指している心の在り方である、全て自分に必要な事として喜び楽しんで生きて行く、というものがあります。
この感覚を維持できれば、お釈迦様やキリスト様並みになれるとも言われています
単純なことなんですが、これがなかなか難しくて何かが邪魔します。
それが何なのかに気づきけまして、これが自分の中ではとても大きな出来事となっています。
邪魔しているものとは、悪い意味での自己正当化欲が原因だったと気づきました。
欲には自然に出る欲があり、例えば食欲・睡眠欲があります。
お腹が空いたし栄養が必要だから何か食べる、疲れたし眠いから体を休める為に寝る、当たり前の理由ですが、何気にこれも正常な範囲での立派な自己正当化行為です。
こんな感じで人間は、自分が行う行動に当たり前のように理由をつけて自己正当化をいろんな場面でしています。
当たり前すぎて意識しないことがほとんどかもしれません。
ボクが言う悪い欲とは必要な範囲の欲でなく、下心を持った欲で慾となります。
悪い自己正当化欲とは『自己正当化慾』と書きます。
この自己正当化慾は、自分にとって都合のいい理由を一生懸命探し出して、自分に問題が起こるのは人のせいだ! 世の中のせいだ! などと言って自分を正当化します。
また、自分や人にウソをついてごまかす時にも大活躍します。
自分に言い訳(自己正当化)してなかなか行動しない場合もあります。
お金が欲しいから、粗悪な品を良いものと言って売る場合なんかは、お金が欲しいという自分の慾を正当化していると言えます。
あの人嫌いだけど、付き合っていればおごってくれたり、なんかくれるから表向き仲良くしとこう。
これなんかは、自分にウソ付いて嫌いな人と付き合うことを、何かもらえるからという物慾で正当化しているパターンです。
人には好き・嫌いがありますから、自分の中でそういった区分けをするのは良いと思います。
でも、あの人のこういう所が許せないなどと人を過度に責めてしまう場合は、その人に思い通りの行動をさせたいという支配慾を正当化しており、相手に求めているだけです。
(どうしても相手に注意喚起しないといけない場合は、これに当てはまらないと思います)
ちょっと怖いのが、強い被害者意識が混ざった自己正当化慾です。
常に仮想の敵をつくり上げて自分を正当化しようとします。
こういう人は、こうしないと自分を保てなくなりますので、その正当化の方法は異常な場合が多いです。
また、敵でなく自分にとっての加害者(脅威や不安)をつくり上げて、悲劇のヒーロー・ヒロインといった立場を確保する場合もあります。
そして酷い人は、常にこういった行為を繰り返し、時には周囲を巻き込んで自分の正当性を訴え始めます。
人や何かに依存する場合も自己正当化慾が働いています。
もっといろいろありますが自己正当化慾というのは、こんな感じで染み付いた癖のようなものになっていると思いました。
ボクがブログで書いてきた心の自立を難しくしている大きな原因が、このような悪い自己正当化行為にあったと気づきました。
この悪い自己正当化行為が、自分の本当の心との繋がりを弱くしたり、心が訴えているものに蓋をしたりしてしまうのです。
そして自分の心にどんどん濁りやホコリが付着していき、視野が狭くなり隔たったものの見方や狭い価値観を生み、意識の拡大を阻害していくものとなります。
もう一般的に悪いと言われる行為全てに、自己正当化慾が一対となっていると言っても過言ではないと思います。
お釈迦様が戦ったものとは、いろんな欲・煩悩・葛藤を助長している、自己正当化慾(言い訳するもう一人の自分)という魔物だったのではないか? と思えるほどボクの中では大きな発見でした。
このことを文面で書いても難しいのですが、心と意識の変革にとても必要なことと思っておりブログにしてみました。
今後の自分とお客様のセッションに活かしていきたいなと思っています。
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